漫画で見る20代、鬱ひきこもりニートの日常

大卒の新卒で入るもすぐ退社。ひきこもりニートの日常を漫画でお届けします

不幸とは?幸福とは?アランの幸福論について~②

※青字は前回の記事と同じです。

 

第一章 「情念」 

 

第一節 情念の存在

 

「『いらだつ』というこの言葉は、人に何かを考えさせる。いらだちはまた、その叡知において、情念のなかでもっとも激しいものを指しているともいえる。怒りにわれを忘れた人と、咳の発作に身を任せている人との間に大きな相違があるとは、ぼくは思わない。」(アラン,『幸福論』,岩波文庫,1998,pp.13-14)

 

 いらだちというものは、身体の調子によるもので、出来事の良い悪いという感じ方は、体調によって左右されるものである。

 怒り狂ったように体中をひっかくような咳をする人は、そうして疲れがどっと溜まりさらにいらいらする。自分の考えは情念にひっぱられるものであり、情念によって病気をより悪化させるのである。

 情念とは、怒り、悲しみ、不安、後悔、絶望、嫉妬、怠惰、などのふと沸き出る感情で、自分の考えを操ってしまうあの魔法のような力である。例えば、夜に布団で寝転んでいるときになんの脈絡もなく唐突に過去の振られた体験を思い出して暴れる失恋した男のような、あの急に訪れる暴走した感情こそ情念の仕業である。そしてどんな人間も情念を持ち合わせているのである。情念は人を不幸にするもので、人を悪い気分にさせる。情念は人の病気を悪化させる。むしろ情念自体が病気だと言ってもよいだろう。

 

 

 

 

 第二節 鬱状態

 

躁状態から鬱状態へと、また鬱から躁へと変わっている。多くの場合、食事の仕方によって、また歩き方や注意力、本の読み方、天候によって。そこで君の機嫌がよくなったり悪くなったりする。」(アラン,『幸福論』,岩波文庫,1998,p.20)

 

 

 躁鬱になったり、鬱になったり、喜怒哀楽が激しくなるのは、身体の問題であり、悲しみも単なる身体の疲労か病気によるものだ。情念に駆られると、話を突っぱねるし、薬もつっぱねる。そうなってしまうとより体調も悪くなる。情念に駆られず安静に体調を治す方が良いものだ。

 

 日によって、鬱状態や躁鬱状態になる人がいる。その人の気分は、何をしたか、何を見たか、何を聞いたか、何を味わい、何を嗅いで、何に触れたか、それらに影響された体調が情念を沸かせ、その情念が躁鬱や鬱の考えにさせるのである。

 

 

 憂鬱な時、人と話すことや、絵を描いたり、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり、おいしいものを食べたり、風呂に入ったり、運動したり、こういうものは私たちの憂鬱を小さくさせてくれる。

 

すなわち、身体に直接訴えかけることは、そのまま気分に影響を与えることを意味している。

感情は身体あってのものであり、感情によって身体に影響を与えるのではなく、身体が感情に影響を与えているのである。

 

教授の話を熱心に聴いている生徒は話を逃さないように意識を集中させているし、フェンシングの試合をしている最中は、相手の動きを推測し、どう攻撃を避けて剣を相手に突き刺すかに意識を集中させている。

これらの瞬間に、失恋して胃が痛くなった時の感情を思い出すことはないし、嫌な思い出を思い出す事もない。つまり、その体調によって感情が支配され、感情によって思考する過程が制御されるのである。

 

 

悲しみが起こるのも、身体が病んでいることから出てくる。憂鬱な人は、不幸でつらい理由は不幸な考えをしているからだと言い張る。しかし、憂鬱な人はどんな事柄にも不幸で悲しむような理由を見つけて憂鬱になるのである。

 

憂鬱な人を慰めようとするならば、侮辱されたと思い、救い難い不幸のように思い、何も言われなければ、自分には友達がいないのだと、この世でひとりぼっちだと思いこむ。

 

どのようにしても不幸な理由をつけるのである。そうして、自ら痛む箇所に触れ悲しむ。そのような鬱状態には、休養が必要である。

 

 

体調が不正常であるためにおこる病気なのである。癌の重傷患者が安静にしなくてどうしようか。フルマラソン42.195kmを走ることが正しいと言えるだろうか。そんなことをしたら体を壊すに決まっている。

 

心の悲しみも憂鬱も病気と同じである。怪我と同じである。病気や怪我は、傷を広げてはいけない。だが治るものだ。動いていけないほどの病気や怪我は、安静にすることが一番の療法である。